今だから話します注目の記事は、羽生結弦の金メダルには荒川静香のある記者会見が大きな影響があったです
テニスの錦織圭選手の今だから話します
錦織圭選手は去年発表された年収は38億4000万円日本人の2位のヤンキース田中将大投手の25億5000万円を大きく上回ります
錦織圭選手はあるショットで世界を驚かせました
ネット際で返した直後一度動きを止めました
相手が打つ直前に再び動き出しポイントを取りました
その名も、死んだふりショットです
錦織圭選手に話を聞くために練習拠点のアメリカフロリダへ行きました
死んだショットについて今だから話してもらいます
錦織圭
「動かなければ相手も油断するので完全にクロスコートを開けていたので普通だったら何も考えてなかったらあっちに打ってくるので
今回はハマった
逆をついたショットが決まる時は嬉しいです
単純に何も考えずに打っているだけではつまらないので
飽きやすい性格なんで
何しててもすぐ飽きますね
みんなルーティンというけど僕は何も持ってなくてやべえなっと思って
じゃあルーティン作ろうと思ったら2.3日で飽きちゃってやめた
自由」
そんな錦織圭選手が憧れの人物を初告白します
錦織圭
「明石家さんまさんです
頭の回転が速いし、いろんな人のことを見ているなと思うし
日本の中で貴重な人です
人間それぞれ一回の人生だしだからさんまさんは
仕事にストイックに入りこめてプラス楽しんで出来ていることは素晴らしいと思います
人間のなるべき姿
幸せですよね
好きで楽しいことをやって死にたいじゃないですか」
次の今だから話します
2015年ラグビーW杯の日本対南アフリカ戦(優勝2回)
試合終了間際3点を追う日本
スクラムかキックを選べる状況にありました
スクラムを選べばトライで逆転だがリスクは高いです
畠山選手
「首脳陣はキックで同点狙いと言ったんですけど現場にいるリーチ含めみんながスクラムで勝ちにいくと話しました」
エディーヘッドコーチはキックで同点の指示をしましたが選手たちが選んだのは逆転狙いのスクラムでした
畠山選手
「今だから言えるんですけど
当時監督していたエディ―なんかは激高してたっていうのは聞いてますけど」
無視されたエディーは大激怒して着けていたヘッドホンを投げつけて壊しました
それでもトライに成功したら監督のエディーも大喜びでした
今だから話します元水泳選手の松田さん
「日本代表の宿泊先をある少年が調べてずっと出待ちして日本代表選手みんなと写真を撮ってるっていう少年がいたんですけど
それが実は今大活躍している
瀬戸大也選手です
大きくなって一緒に代表に入れてよかったです」
次の今だから話しますトリノオリンピック金メダルの荒川静香さん
トリノオリンピック直前ある人気番組に出演しました
全問正解で1000万円が貰えるです
みのもんたさん司会の番組です
その後500万円を獲得しました
1000万円の期待が高まる中500万円でファイナルアンサーをしました
荒川静香
「欲しすぎて500万円でファイナルアンサーしました
それで学生ローンを返しました」
実は荒川静香さんはフィギュアスケートを続けていくには経済的な苦労が絶えなかったのです
荒川静香
「お金がかかる競技をやっていたので
スケートをやっていなかったら家が建ったみたいな
サラリーマン家庭だったので家計のやりくりは大変でした」
フィギュアスケートでオリンピックに出場するまで総額1億円以上の費用がかかると言われています
そのため父が生活費を工面し母は朝3時に起床して総菜工場でアルバイトそれが終わるとゴルフ場でキャディーでの仕事、娘を待つ車中で仮眠をとっていました
また1着数十万円する衣装を着る選手がいる中、母は大学2年生まで娘の為に手作りをしていました
そして長野オリンピックで最年少の16歳で大舞台に立ちました
13位と健闘しました
さらに大学に進学しました
21歳になった荒川静香さんは信じられない決断をしました
荒川静香
「今だから話しますが
実はフィギュアスケートを続けるとは思っていなくて就職をしようと思っていました」
なぜ就職せず再びオリンピックを目指したのか?
荒川静香
「フィギュアスケートはピークが若い年齢に来るスポーツで24歳でオリンピックを迎えるのは完全にピークを越している
どちらかというとお局」
事実フィギュアスケートの金メダルはほとんどが10代で荒川静香さんはモチベーションを失っていました
トリノの前年は世界選手権9位と苦しい日々が続いていました
荒川静香
「うまくいかなかったから、このまま辞めたくなかった
ゴールが次への始まりになるようなゴールを迎えたい」
そしてトリノオリンピックに向かいました
そしてアジア初の金メダルに輝きました
そして荒川静香さんは直後の記者会見で
「私が基礎を作り上げてきた仙台のリンクは閉鎖されてしまいまして
小さい子たちが練習場所を探すのに非常に困っている状況です
今後よくなっていくことをいつも願っています」
実は荒川静香さんが使っていた仙台のリンクは羽生結弦選手が当時11歳の時使っていました
羽生結弦選手は練習場所を無くしました
荒川静香さんの言葉が宮城県と仙台市を動かし仙台のリンクは2007年営業を再開しました
そして羽生結弦選手はフィギュアスケートを続けることが出来ました
その7年後ソチオリンピックに出場した羽生結弦選手は演技の最後に披露したのが荒川静香さんの有名なイナバウアーでした
史上初の男子金メダルを羽生結弦選手は獲得しました
金メダル取った直後、羽生結弦選手は荒川静香さんに伝えたいことがあると当時オリンピック現地にいて取材をしていた荒川静香さんと会いました
羽生結弦選手
「トリノオリンピックで金メダルを取った時に僕がまだ小学生で
オリンピックで金メダルを取ろうと思ったのは
隣にいる荒川静香さんのおかげで
ホントにこうやって頑張って来れたと思っています
ありがとうございました」