ぶっちゃけ寺&Qさま 本能寺の変は娘の細川ガラシャの為に明智光秀は織田信長を討った!?

ぶっちゃけ寺&Qさま!!

ぶっちゃけ寺 今日は細川珠、洗礼名はガラシャ戦国一のキリシタン美女と言われていた女性です

父親はあの本能寺の変で織田信長を討った明智光秀です

裏切り者の女として苦難の人生を送り苦しみから逃れるためにキリスト教を信仰しました

細川ガラシャといえばその壮絶な死に様が今なお語り継がれています

自らの家臣に胸を突かせ死を迎えたと言われています

そんな細川ガラシャの波乱の人生を紐解くと未だ明かされない本能寺の変の謎に迫ることができます

本能寺の変まで19年明智光秀の娘として玉(ガラシャ)が誕生しました

細川ガラシャが生まれたと伝わるのは福井県です

称念寺にはガラシャたち親子の蔵した記録が残っているそうです

明智光秀は浪人時代は称念寺で寺子屋の先生をやっていました

細川ガラシャは歌うことが好きな明るい子供でした

両親の愛情を受け過ごした幸せな幼少期でした

その後細川ガラシャ一家はある出来事をきっかけに生活が一変しました

明智光秀と織田信長との出会いです

織田信長にその才能を認められた明智光秀は織田家の家臣となります

本能寺の変まで11年、比叡山焼き討ち 細川ガラシャ9歳の時です

織田信長の残虐性を示す歴史的大事件として知られていますが、実は明智光秀と深い関わりがあったのです

1571年織田信長が比叡山を焼き払った事件で 死者は3000人とも言われている

明智光秀が実行犯だと言われています

焼き討ちが終わると織田信長は明智光秀の功績をたたえ比叡山の麓にある坂本の地を与えました

かつての寺子屋生活は嘘のように細川ガラシャは坂本城に移住しました

明智光秀はまるで罪滅ぼしをするかのように比叡山の麓の寺を訪れました

西教寺

1571年に織田信長が起こした比叡山焼き討ちで西教寺は一度消失しています

その後明智光秀によって再建されました

しかも西教寺によると自らの城の一部を移築するなどかなりの思い入れがあったと伝えられています

現在も寺の入り口に構える大きな門も坂本城の城門をそのまま移築したものなのだそうです

さらに坂本城から移築されたものがあります

ぼん鐘です

細川ガラシャも坂本城にいたのでこの鐘を聞いていたかもしれません

さらに寺の本尊も明智光秀が再建した時にまつられたと伝わります

明智光秀は自分で焼いた寺を自ら立て直しどんな気持ちで手を合わせていたのでしょうか

罪悪感だったと思われます明智光秀は仏教的にも信仰が深かった

明智光秀は仏教を本来の姿を作ろうとしていたのではないでしょうか

しかしここまで見てきた明智光秀は裏切りのイメージとは少し違う

西教寺には、戦で亡くなった家臣を供養するため明智光秀本人が寺に宛てた書状も残されていました

身分を問わず平等に供養米を奉納していることからも大変な部下思いだった事が分かります

裏切り者のイメージとはかけ離れた明智光秀

その後1578年に細川ガラシャの最も幸福な時期が迎えられます

16歳の時に運命の出逢いが!

細川忠興との結婚です

細川ガラシャ申し合わせで長女が生まれて長男が生まれて4年間ぐらい幸せな生活を送っていました

京都の勝龍寺城が細川ガラシャと夫の細川忠興が幸せに過ごした場所です

本能寺の変は娘の細川ガラシャの為に明智光秀は織田信長を討った!?

1582年6月2日本能寺の変

明智光秀が織田信長を討った真相とは?

本能寺の変の謎に迫る直筆の書状がありました

死の4日前に書いた書状には驚きの文章がありました

また細川ガラシャはこの本能寺の変を境に幸せな生活が崩れ去りました

本能寺の変により細川ガラシャが裏切り者の娘という烙印を押されます

逆臣の娘として幽閉

本能寺の変の後、人里離された山奥に幽閉されてしまいます

京丹後市味土野です

今は碑が残っています

細川忠興の正室ということで隠棲の地と言うことです

さらに本能寺の変からわずか11日後秀吉によって明智光秀が死去しました

細川ガラシャは、あの幸せな生活が夢だったかのように孤独と悲しみに襲われる日々でした

そんな細川ガラシャが唯一心の拠り所としていたのか当時日本に広まりつつあったキリスト教です

後に戦国一キリシタン美女と言われたほどの細川ガラシャは、深くキリスト教を信仰して行く

大阪カテドラル聖マリア大聖堂には細川ガラシャが描かれています

織田信長も興味津々だったキリスト教ですが当時は西洋の文化と日本の文化が融合した珍しいものもあったそうです

大阪市北区南蛮文化館

細川ガラシャをはじめ当時のキリスト教徒が 当時の拝んだとされる貴重な品があります

聖がん

外は和風で中はマリアとキリストでした

本能寺の変から2年後幽閉が解かれ細川家に細川ガラシャは戻りました

しかし夫の細川忠興のいじめがあった

細川忠興は謀反人の娘を正室にしているので肩身が狭いでも愛している

でも肩身が狭いのでわざと監視をつけて皆さんにアピールをするためか外出も許さない監禁生活を細川ガラシャは送っていました

当時の武将にとっては家を守るのが一番大事です

手打ちにした部下の血がついた刀を細川ガラシャの服でぬぐっていた

様々ないじめをしますが、細川ガラシャも顔色ひとつ変えないでその血がついた服を3日でも4日でも着続けていた

最後には細川忠興がすまなかったと言った

細川忠興がお前は蛇みたいなやつだなと言ったら、細川ガラシャが鬼の嫁には蛇が似合いますと言いました

だんだん夫が嫌になってきてキリスト教への信仰が強くなってきました

当時夫の細川忠興に外出を禁じられていた細川ガラシャですが侍女を協会に送り洗礼を受けさせ細川ガラシャは侍女から洗礼を受けキリスト教徒になりました

実は本能寺の変の後、細川ガラシャが父親の明智光秀に対し思ったという言葉が細川家の記録に残っていました

父上の腹黒いを心のせいで私は夫に捨てられ惨めな身の上になりました

しかし誰かが見ることを意識して書いている可能性もあります

そしてキリスト教に救いを求めた細川ガラシャに悲劇が!

バテレン追放令

1587年増え続けるキリシタンを秀吉が宣教師の追放を命じてました

これにより夫の細川忠興のいじめはさらに熾烈になり細川ガラシャを追い詰めていきます

キリスト教の教えが心の支えとして生きてきた細川ガラシャについにその時がきました

1600年7月17日

細川ガラシャ38歳の時、大坂の屋敷で自害

豊臣秀吉の死後覇権争いで細川家と対立する石田三成は細川忠興の妻細川ガラシャを人質に取ろうと屋敷を攻めました

細川ガラシャは人質になるよりも自害の道を選んだのです

しかし、キリスト教では自害が禁止されているため家臣に胸をつかせて最後を迎えたと言われています

大阪 崇禅寺には細川ガラシャの墓があります

その細川ガラシャの強い覚悟がわかる貴重なものが残されています

細川ガラシャが死の間際に握りしめていたというロザリオ

実は南蛮文化館では細川ガラシャが死の直前まで握りしめていたと言われるロザリオがあります

そこには我々には想像もつかない細川ガラシャの思いがあります

細川ガラシャは最後は家臣が屋敷に火を放ち その後に神父さんがお骨を拾いに行った時に焼け残っていたロザリオです

細川ガラシャは亡くなるときに辞世の句を残しています

散りぬべき時知りてこそ世の中の

花も花なれ人も人なれ

人間というのは死ぬべき時が必ずあると

じゃあ花が散るように人も死ぬべき時に散っていくのが一番自然なんじゃないかって言う

自分が納得した上でなくなっていたと思います

ロザリオにはある秘密が!

十字架の真ん中に明智の紋があります

ロザリオの中心部には明智家の家紋が飾られていました

細川ガラシャはそのロザリオを握りしめてこの世を去りました

実は父親の明智光秀の残した書状には本能寺の謎に迫る一文がありました

なぜ明智光秀は全てを捨てて織田信長を討ったのか?

死の4日前に書いた書状を公開!

明智光秀が死の4日前に細川家に送った直筆の 手紙が残っていました

信長を討ったのは忠興殿を取り立てるためでもある

50日100日の間に近国を統一しその後は忠興殿と我が子、十五郎に引き渡して隠居する所存でいる

単純に読めば婿のためにやった

婿のためと言うことは、娘のガラシャのためにやった

諸説ありますが父として思いが明智光秀を奮い立たせた大きな要因だったのかもしれません

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